りゅうちぇるのタトゥー問題を“擁護”する人に見られる“欠損した能力”と“危険性”とは?

タレントのりゅうちぇる氏が、両腕に家族の名をタトゥー(入れ墨)で刻んだ事に対して、様々な人が持論を展開し注目を集めている。

当初はりゅうちぇる氏がInstagramでタトゥーを公開し多くの批判が相次いだ事で、りゅうちぇる氏本人がタトゥーを擁護するコメントを行い、それに続いて擁護派の意見がネットニュースで連日取り上げられる事となり話題となっている。
擁護した有名人には野村周平氏、ロンブーの田村淳氏、脳科学者の茂木健一郎氏などがいるようだが、多くのコメントはやはり批判が多い。

今回の騒動を見て確かなのは、擁護する者には “ある能力” が欠けていることだ。

《タトゥー》への批判は「偏見」ではない

タトゥー擁護派の持論は、「偏見のある社会」に対する疑問を呈しています。
野村周平氏は「タバコ吸ってたら印象悪い。タトゥー入ってたら印象悪い。意味わからない」と騒動を批判し、お笑い芸人のあばれる君は「大丈夫!!親指一本で投げられる言葉なんかに親心は絶対に負けないよ!!」とりゅうちぇるにエールを送り、脳科学者の茂木健一郎氏は「日本の国際的恥」とした上で、これを「差別」だと批判し「撤廃するべきだ」と訴えています。

そんな擁護派の意見を要約すると、

  • 本人の自由で、何が悪い?
  • 人を見た目で判断するな!
  • 親心が出た気持ちが素晴らしい!

というものです。

タトゥー批判は “偏見”ではなく“真面な直感”

このような《タトゥー》擁護者の「偏見のある社会」への疑問は、理知的な人であれば、もう既にお分かりと思いますが、誤っているだけではなく、そもそも、これは「偏見」ではありません。まして、親心への美徳とされるレベルの話でもありません。

偏見を抱くとは、「早計な判断」を下すと言い換える事が出来ますが、公正に吟味をすることなしに他の人々を裁くことです。タトゥーを嫌悪し、批判する多くの一般人は、“早計な判断”によって批判を行っている訳ではありません。

若い人は特に、横文字にすると「カッコいい」「お洒落」と勘違いしてしまう傾向にある為、《タトゥー》というとファッションの一部として誤認している感じがあり、新しい個性やアイテムのような感覚があるのかも知れませんが、この《タトゥー》つまり《入れ墨》の審議は3000年以上前から既に行われていました。

入れ墨は、皮膚​を​切っ​て​傷​を​付け​たり,皮下​組織​内​に​染料​を​注入​し​たり​し​て​皮膚​に​描か​れ​た、生涯​消え​ない​印​や​模様。この​習慣​は3000年以上前の古代より行われている。それは、世界最古の歴史書「聖書」にも記載されており、例えば古代エジプト人は自分たちの神々の名や象徴の入れ墨を胸や腕にした時期があった。しかし、当時のイスラエル人は、究極の親である創造主である神が自らの体に損傷を加えることを禁じた律法に従うことにより、他の国民とは異なった存在として際立っていた。また、その禁止命令により、神の創造物である人体にふさわしい敬意を示すべきであることをも銘記させられたであろうと思われる。

つまり、最近生まれ、古代歴史などの造詣が深くない場合には知らないかも知れませんが、この《入れ墨》に対する是非は現代に生きる我々の3000年以上前の先祖の時代から既に繰り広げられ、人体への悪影響という理由を含め、身体に傷をつけるこの行為は行うべきではない、と命じられているものです。

そしてこの命令は、我々の人体の中に組み込まれた「律法」つまり「良心」の中に刻み込まれた声による、正しい感覚でも感じるものです。

この正しい感覚の中の代表的な分かり易い例としては、

  • 偽証してはいけない
  • 親を粗末にしてはいけない
  • 人を傷つけたり、殺してはいけない・・・などがあります。

もし上記のような事柄をしてしまった場合「胸が痛む」状態になりますが、それがまさに「良心の呵責」による警告であり、正しい感覚です。

《タトゥー》への批判は「正しい感覚」によるもの

では、我々の人体の中に組み込まれた「律法」つまり「良心」という正しい感覚とは何でしょうか。

「良心」とは

良心とは、自分自身を見て自分について裁きを下す、すなわち自分自身について証しする能力のことです。良心は正邪に関する内的な実感もしくは意識であり、それによって人は釈明されたり咎められたりします。したがって、良心は自身を裁きます。それはまた、思考や行動によって、すなわち研究や経験を通して人の思いに植え付けられる確信や規範によって訓練する事ができます。良心はこれらのものを基に、いま取っている、または取ろうと考えている行動との比較を行ないます。そして、規範と行動が相反する時には警告を発します。

良心はその人自身の行ないの善し悪しによって喜びを感じさせるものともなれば、苦痛を感じさせるものともなるという意味で、一種の道徳上の安全装置になり得ます。もっともこれは、良心の警告に逆らい続けたために良心が無感覚になっている場合を除いての話です。

「良心」は、人に生まれついて備わった “共同の知識”という能力

分かり易い例で言うなら、人を殴ってしまい血を出させた場合、良心の機能が正しく作動していれば、心苦しくなり、後悔し、申し訳ない気持ちになります。早く治療しなければ!と焦りも出るでしょう。しかし、人が血まみれで倒れていても何も感じない、むしろ快感を覚える場合、良心の機能はマヒしている状態です。

人は誰しも、誕生した瞬間は、この良心の能力を持って生まれてきます。その為、殆どの場合、この良心の感覚を共有することが可能です。しかし、中には境遇や環境によりこの能力を失わせてしまうことがあります。

まさに、今回の《入れ墨》問題はその小規模な象徴とも言えます。

今回のタトゥー問題は、“良心の欠如” という重大問題

ここまで述べてきた通り、この問題は単なる芸能人の思考の自由という問題ではないのは明らかです。

今回、《タトゥー》つまり《入れ墨》批判する人が多くて安心したのは、まだまだ良心的な能力を正常に有した日本人が多いという事です。これらの批判をする人は、みな正常で正しい感覚の持ち主です。

言い換えると、《タトゥー》つまり《入れ墨》を擁護する人たちは、この「良心」という能力の欠損者と言えます。もし正常な良心の持ち主であれば、何となく嫌な感覚になるものだからです。これを、単なる主観と捕えるのは誤りでです。人体を傷つけメスを入れる行為、皮下組織の中に塗料を流し込む行為は、正常な感覚であれば非と思うものです。これを野村周平氏のように、「なぜ?意味分かんない」とするのは、既に感覚がマヒした状態です。

このような人は、これから先、自分の子供が「タトゥー入れてくるわ」と出掛けても「おう、行って来い!可愛い柄にしろよ」などと言って快く送り出すのかも知れませんが、本来の正しい親であれば、子供が自分の身体に傷を付けに向かう行為に抵抗があるのが正しい感覚です。それは、生まれた瞬間から、子供が怪我しないように、病気をしないように大切に育ててきた親心の一環であり、正常な親であれば、そう思うように出来ているからです。

そして、自分の子供ではなく、自分自身の事としても、わざわざ身体を傷つけ、身体に香料を混入する行為に抵抗を持つのが、正常な感覚であり、その感覚を生み出すのが、道徳上の安全装置である「良心」です。それを感じないのは、正しい感覚という能力を失わせた証拠です。

しかし、この良心の欠如、正しい感覚の欠損は、時代と共に顕著になりつつあります。それは巧妙に人の「良心」が麻痺させられているからです。

りゅうちぇる氏は、「この体で、僕は大切な家族の笑顔を守るのです。なので、この体に、大切な家族の名前を刻みました」と述べていますが、批判に対する論点がズレているだけではなく、家族への愛情という素晴らしい大義名分により、人の良心を麻痺させる“愚かな決断”への一端を担われることになりました。これは、或る意味、ユダヤ人を何とも思わずに大量虐殺させたナチスの誘導や、戦争の誤った美学に日本を巻き込んだ戦犯たちの小規模版と言っても過言ではありません。もしこれで、自分の意見や良心の感覚が軟弱な者が、「そうか、《入れ墨》ってカッコいいのか、家族思いなのか」と勘違いしたら大変な事です。

また脳科学者の茂木健一郎氏は、「日本の国際的恥」と述べていますが、それは違います。国際的に横行している事=正しいというこの持論はあまりに愚かです。もし茂木氏の「インバウンド(訪日外国人)のお客さんも増えている今、放置すれば日本の国際的恥である」と指摘を真に受けるなら、銃を保持する外国人が多いのだから、日本も銃を持たなければ“恥”という事になります。海外の人が当たり前にやっている事が正しいとは限らず、日本人の団結力と良心の中で守るべきものがあり、今回の《入れ墨》も、日本人は受け入れないという強さこそ、恥どころか誇るべき美学です。また茂木氏はやや難しい言葉を並び立て持論を論理的な思考と位置付けていますが、全く賢明さのない持論だといえます。

「良心」は「理論・論理」を超越した優れた感覚

論理的であることを良しとする人は大変多く、根拠や証明は重要視されます。実際、これは大事な要素でもあります。

しかし、論理は頭の中で思考された結論に過ぎず、それを超越した能力こそ直感や感覚です。成功者はこの感覚が優れていると言います。あのスティーブ・ジョブズも信じた直観は、人生の成功に最も重要な役割を占める感覚の研ぎ澄ませ方によります。

今回《タトゥー》つまり《入れ墨》に嫌悪感を抱く人々の多くは、良心を含めた正しい感覚の持ち主です。

今回の騒動での差別の誤用

今回、茂木健一郎氏はじめ、《タトゥー》つまり《入れ墨》で公共施設に入れないことなどを「差別」と表現している人がいます。しかし、これも間違いです。

差別とは

ブリタニカ国際大百科事典によると、差別とは、特定の個人や集団に対して正当な理由もなく生活全般にかかわる不利益を強制する行為をさす。その差別的行為の対象となる基準は自然的カテゴリー (身体的特徴) の場合もあれば、社会的カテゴリー (所属集団) の場合もあるが、いずれにせよ恣意的(気ままで自分勝手なさま)な分割によって行われる、とあります。

現在の制限が「差別」ではないのは明らか

タトゥーを入れている人が温泉やプールの利用を制限されている現状は、「正当な理由もなく」ではありません。この場合の理由は、《タトゥー》つまり《入れ墨》を刻んでいる人の多くは反社会的勢力や反社会的集団に属する人が多いからです。現在は法務省の「反社会的勢力が取引先や株主となって、不当要求を行う場合の被害を防止するため、契約書や取引約款に暴力団排除条項を導入する」という指針に寄り、様々な契約書でも「暴力団排除条項」や「反社会的勢力の排除」が必要となってきましたが、これは差別や区別ではなく、正当な規制であるのは誰しもお分かりのことと思います。

同様に、多くの公共施設において、反社会的勢力排除を目的として、立入り禁止ルールを設けることは正当な判断です。

そして、この時、「ファッションとして何となくカッコいいから《タトゥー》を入れちゃった人は除外から除く」という例外が出来ないのも理解できます。もしこのような事を許せば、誰しも「これはファッションタトゥーだ!!」と主張するでしょうし、規定ルールの存在意義自体がなくなります。

一般の人の被害や健全な環境を守るこれらの判断は正当であり、茂木健一郎氏や差別を訴える人は、これらの簡単な図式を理解した上で述べているのか疑問です。

また、この《タトゥー》は身体的特徴には当たりません。なぜなら、差別とされる《身体的特徴》とは肌の色や生まれ持った身体の形状などを指し、これは自ら選択して身体に印や模様や刻んだものは含まれないのは明らかだからです。

まとめ

以上述べてきた通り、批判者の持論は、単に「目立ちたい」か「正しい感覚」や「正しい良心」という能力の欠損者による言葉と言えます。

しかし、多くの一般の日本人が、「何かおかしい」「違う」「そうじゃない」という感覚を持って批判されている現状は、まだまだ「正しい感覚」や「正しい良心」を持った素晴らしい人々が多いという論証にもなりました。

その為、有名人の影響や時代の流れや流行に惑わされることなく、不変の正しさや義がこのまま大多数の感覚でいることを強く願うと共に、次の世代(子供ら)にも正しい判断や能力を継承する必要性を感じるばかりです。

 

関連記事

関連記事がありません。