山口県男児をたった30分で見つけたスーパーボランティア尾畠春夫さんの真実

山口県周防大島町の山中で行方不明になっていた男児(2)を発見した大分県日出町の尾畠春夫さん(78)のニュースが日本中に駆け巡った今、多くの人に胸に詰まる感動を与えている。

ニュースを見て、尾畠さんのお話しされる言葉を聞いた人は誰でも、これ程の素晴らしい方がおられたとは!と、感動に心が湧くと同時に、感慨に打たれ、時に自分の生き様を恥じる程の感銘を受けている。

150名が3日間捜索して無理だった男児をわずか30分で見つけ出す偉大な功績者 尾畠春夫さん

謙虚な尾畠さんは、「男児(2)を見つけ出したのはこれまでの経験に基づく勘が偶然ぴったり合った」というような事を述べられていますが、これは偶然ではなく、まさに必然です。

実際、尾畠さんは捜索前に、「彼に会えるような気がする」という胸騒ぎを感じられたそうです。それは、これまでの経験と判断力、そして「見つけ出してお母さんの元に必ず帰す」という強い信念と決意があったからこその感覚です。

また尾畠さんは「私の力ではなく、お天道様が導いて下さった」とか「天が導いてくれたのかも知れないし…」と述べられおられますが、まさにそうかも知れません。それは天の神が尾畠さんの存在を日本中に知らせ、尾畠さんの功績に光を与えるべく導かれたとも言えるかも知れないと感じます。

尾畠さんが、警察に男児を渡さなかった深い理由

尾畠さんが男児を発見した際、警察などに男児を渡してほしいと言われても、「嫌です」と言ってそのまま先ず母親と家族の元に男児を連れて行った話には、尾畠さんの正しい判断力と優しさがありました。

尾畠さんはテレビのインタビューで「(発見前に)お母さんに男の子を見つけたら必ず抱き締め、この手で直にお渡ししますと約束したから。口約束でも契約だから、なんや警察官の法律みたいなのがあって、決まりがあって、と言われたけれど『嫌です』と言ったんです」とおっしゃっていますが、ここまで“約束”された理由が素晴らしいのです。

それは2年前の2016年12月に同じく当時2歳だった女児が行方不明となった際、その捜索に加わった体験からの行動でした。
この時女児は無事に保護されますが、すぐに警察が車両に乗せ、走り去りました。その女児の母親が、車を追い掛けながら、女児の名前を叫び続けても車は止まらず女児を連れ去る形になります。この警察の行動はマニュアルに沿ったもので「行方不明者を発見し次第、病院に搬送して健康チェックをする為」ではありますが、しかし、母親としてはまず我が子を胸に抱き締めたいもの。それが幼子であれば尚の事です。また、子供にとっても母親と会うことが何よりの力になります。それを知っていた尾畠さんだからこそ、頑として警察に男児を渡さず、先ずは母親の胸の中に連れて行くという判断を持って、このような行動に出られたのです。

この尾畠さんの強さ根底にある正しい“判断力”と“優しさ”を知れば知るほど、胸を打たれずにはいられません。

尾畠さんの経歴

自分は学歴も何もないけど世間に恩返しがしたい

尾畠さんは7人兄弟の4番目の三男坊として、大分県でお生まれになります。
戦時中の日本で国全体が貧しいとは言え、尾畠さんのご実家も貧しかったそうですが、尾畠さんは兄弟の中でも最もご飯を食べていたそうで、小学生5年生の時にお父様から「春夫、お前はうちで養っていけんから、農家に奉公に行きなさい」と言われ、そこからずっと農家で働き、中学卒業した翌日からは別府市の鮮魚店で働き始められます。勉強が好きで得意科目は国語・算数という事ですが、中学校に通えたのは3年間で4ヶ月くらいということですから、殆ど学校には行けなかったそうです。しかし、尾畠さんはその日々の中で、《義理人情や仁義》、《人との会話》、《貰ったものは必ず返す》、《秋の稲穂のように頭を深々と下げてお礼の言える人物になる》、という素晴らしい多くの特質や教訓を学ばれます。

その後、山口県で3年間フグの勉強をし、神戸市で4年間魚の勉強をした後、資金を貯める為に東京で3年間とび職をして、遂に28歳の時に別府市でご自分の鮮魚店を経営されます。当時の常連客によると、その鮮魚店は東京で買う3分の1もしくは4分の1の値段で販売してくれるお店で、利益追求するのであれば有り得ないお値段で、尾畠さんのお店がなくなった後は、どこに買いに行ったらいいのか困ったとテレビで語られていました。

そして尾畠さんは40歳の時に趣味となる登山に出会いますが、その時もただ登るだけではなく、途中のベンチが腐っていれば、30キロ以上もある資材を運んで、誰に頼まれた訳でもないのに修繕されたりされます。

その後、28歳の開業時に決意していた通り65歳の誕生日に繁盛していた鮮魚店を閉店させます。この65歳という年齢については、「自分は学がないから人より5年多く働こうと思った」と語られていました。お店を閉じた後の尾畠さんはこれからは自分の好きな事をしよう、という事で、かねてからの夢だった徒歩での日本縦断に挑戦されます。

この旅を通じて改めて感じたのが、人との出逢いの大切さということです。5月28日今の南三陸の歌津中学の浜の近い所にテントを張られた際、出逢って30分しか経っていない尾畠さんにアツアツのおこわを持って来て下さった方がいたそうです。それで3000キロという道のりを完歩された後、改めて感謝の気持ちを伝えたいと思っていた矢先、2011年3月の東日本大震災が起こり、何十回電話を掛けても通じない状況の中で、遂に尾畠さんは南三陸町へ向かわれます。そこでお世話になった方々の無事を確認した尾畠さんはボランティアを始められるのです。

これまでの人生で尾畠さんが学ばれた事柄は全て人の良心に副えば当たり前に思える事柄とも言えるかも知れませんが、それが出来ていない人が大多数の中、これらのことをずっと心に刻み実践されている尾畠さんは、高学歴者や権威者などさえ足元にも及ばないまさに尊敬されるべき人物です。

真に尊敬される人物とは何か、という模範を示してくれた方

現代において、尾畠春夫さんの存在は日本中に、素晴らしい模範を示してくださいました。

古代から、学歴や地位や名誉や財産は誰にとっても欲しいものです。しかし一方でそれが幸せになれる要素ではないということも証明されている現代、頭では分かっていても、具現化された模範となる人物がいないのが平成という時代の特徴のような気がします。

しかし、誰しも模範となる人物を欲するのが人の常です。
そして真に素晴らしい模範者と出逢う時、人は成長できるものです。
過去の時代にはそういう模範者が多くいました。それは時代を遡れば遡るほど顕著です。

しかし平成はそんな「模範者皆無」の時代でした。平成に現れた成功者は皆、憧れる部分を持ちながらも、一方で幻滅する部分を持つ人物ばかりだった事は否めません。そして殺伐とした時代の中で無気力な世相は発展途上のより若い世代に反映されることで、更に日本の勢いや幸福度は低迷していると感じる方も少なくない筈です。

そんな中に現れた尾畠春夫さんの存在は、暗い森に差し込まれた光といっても過言ではありません。

尾畠さんが語った言葉

まだ78です

お金は生きるだけあればいいです。余分に要らない。

最低のものを食べてでもボランティアはさせてもらう。

これまで不特定多数の方からいただいた恩を、微力だけども返していきたい

私はこの世に一人しかおらんブスな男やけど、自分が正しいと思う事はやるんです

褒めていただくことではない、当たり前の事をしているだけだから。

ただ普通のことをしているだけです。できることはしてあげましょうと、ただそれだけです

明日も朝はくるよ。朝は必ず来るよ。

世の中には重たい物はいっぱいあると思いますが、命より重い物はないと思っています

健康に勝るものはないと思っているから、常に自分を厳しく鍛えているんです。

(元気の源は?という質問のふたつ目の回答で)うちの死んだ母ちゃんのおっぱいを飲んだからね

尾畑春夫 おばたはるお スーパーボランティア 山口県行方不明おじいちゃん

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